戦争について思うこと

僕の祖父は、長崎の原爆で亡くなりました。

ほぼ、今の僕と同じ年(37歳)ぐらいで、5歳になる父と祖母を
おいて逝きました。

祖母と父が遠くの町に出かけている時の出来事で、
祖母が祖父の元(自宅)に戻ろうとするのを、父がお腹が空いたので
家に帰らず、町でご飯を食べたいとダダをこねて、家に帰らずに、
祖母が折れて、父とご飯を食べに行った時に、原爆が自宅付近に投下
されて助かりました。



僕は、祖母から戦争の話を幾度も聞かされました。

祖母は、テレビで戦争の話になると、いつも涙を流していました。

僕は、幼いながらに、戦争や政治のことを人一倍考えていたと思います。
小学生の時に、ケンカを大きくしたものが戦争なんだと思い、戦争の原因は
人の心にあると思いました。

人の心のケンカを起こす部分をなくすことができれば、戦争はなくなると、
思っていました。

その後、その「ケンカを起こす部分」は無くすことができないとわかり、
無くすものではなく、競争心などのプラスの方向にもっていくことが正しいとわかりました。

それからは、政治の仕組みや世の中の仕組みに興味を持ち、政治や宗教、人類学、文明学に関する書籍を読み、
ニュースもよくみるようになっていきました。

そして、戦争を起こす原因はいかに、複雑で、難しい問題なのかがよくわかるようになっていきました。


政治は興味を持ち出すと、「関心」から「批判」が出てきます。

「批判」を越すと、「提案」が出てきます。

「提案」が溜まると、「実行」したくなります。

小さい単位のコミュニティでも同じで、たとえば、家庭でも「夫が家事をしない」という不満が
あれば、解決の方向に注力すると、ただ口うるさく言うだけから、具体的に「こうすれば家事をしてくれるのでは?」
という「提案」に変わります。

この流れは人類進化においても同じで、「関心」→「批判」→「提案」→「実行」というプロセスをたどります。

今の日本全体の視点では、この「関心」から「批判」のところのフェーズに位置すると思っています。

たとえば、今回の安保法案のデモに関してなら、10年前ならデモは起きなかったと思います。

日本人は、「デモを起こさない人種」と見られているぐらいに、政治に関心がない人々とみられていました。


また、
「休日で議員がいないのにやっても仕方がない」
「デモをする許可を取っていないのに、法律を守れないやつが憲法を守れるか」
などネットでデモに対する批判がされていたりします。

安保法案に対して、良い悪いという議論は僕はここでしたいのではなく、

「相手側にどれだけ立って見ることができるか」ということが大きな視点だと思っています。

たとえば、「休日で議員がいないのにやっても仕方がない」は、「休日でないと人が集まらない」のが
実状だと思うし、「デモをする許可を取っていないのに、法律を守れないやつが憲法を守れるか」は、
許可を取ってやるデモはできないに等しいし、そもそもデモなのにナンセンスだという考えも見えてきます。

僕は、デモは、内容は別として、デモ自体をすることはとても良いことだと思っています。

それすらできなかった日本人がやっと不満を出せるようになる(批判)ということは、進化にとってとても大切だと
思うからです。


沖縄は、日本の中でも異質で、政治や戦争に対しては、非常に関心が高いです。

本土ではしていない戦争の歴史に関する番組もとても多くて、新聞にもトップにくるのは
戦争・政治関連のことで、日本にある米軍基地の大半が沖縄にあるというだけでなく、
日本で唯一地上戦が行われたところだという土地柄もあると思います。

米軍基地の問題も、中国の脅威から見ると、必要だと思うし、実際に戦闘機やヘリの爆音
で仕事が中断されることでは、基地はあって欲しくないとも思います。

もう少し突っ込むと、米軍基地問題の矛先は米軍に向けるのではなく、中国の脅威をなくす方向に向ける
べきだと思うし、米軍も中東への中継地点として、沖縄以外の候補を探すべきでしょう。
戦争をなくすという問題に対しては、色々な提案ができます。

ひとつあげると、長期的な視点では、「地球全体の自衛隊」を作ることだと思います。
現在、各国が戦力を保持することが一つの問題で、相手の侵略を脅威に感じて、軍を持つ必要に
せまられています。

ここまで、ほぼ国家の境界線が明確になってきている時代なので、相手の侵略を自国が守るのではなく、
侵略を犯そうとする脅威を「地球全体の自衛隊」が取り除くという方法です。

「地球全体の自衛隊」は、色々な国から出来る限り均等に兵力を出して公平さを保ちつつ、
軍備を持つ組織です。

いわば、軍事の外注で、その外注をひとつにまとめることで、国家間の戦争を防ぐことができるのではないかと
思っています。

また、ロシアも自国の軍隊を食べさせていくことに苦慮しているように、各国が国家予算から高い軍事費
をあてて、軍隊を維持する問題も解消されます。

戦争問題の次に脅威になってくる、地球規模の問題にもチカラを集めることもできます。

地球規模の問題とは、巨大隕石の衝突や巨大フレアによる太陽線、CO2による温暖化等々。

僕が始めて、沖縄を訪れた時に行ったところは、平和祈念資料館です。

そこには、戦争のむごさを思い知らされる歴史が嫌というほどありました。

けれども、最後に少しだけ残念なものも感じました。

そこには、「提案」がありませんでした。

戦争をなくすための数々の「提案」が、壁にかかれているなり、メモがはってあるなり、
要人からのひと言として一覧にしてあったりしていても良いと思うのですが、それが
ありませんでした。

一人ひとりがそこで感じて、「こんなことで戦争がなくなるのではないか?」という自分の
意見が言える場があってもいいなと思いました。

悲しみや苦しみに代表されるような「批判」は、次のステップの「提案」に移るべきだと思います。

提案から見ると、愚痴や批判は簡単で、批判から見ると提案はとても難しいことに気付きます。

提案は、様々な角度から見ることが必要にもなるし、ある程度の知識も必要になります。

また、提案に対する批判も少なからずあるでしょう。

どんな組織や集合体でも、先を走る人もいれば、後を追う人もいます。

どっちが良い悪いというわけではなく、先を走る人の役割としては、「提案」や「実行」に注力
することがその集合体の進化を早めることができると思っています。

今、「批判」に違和感を感じている人は、「提案」のフェーズに移る時なのかも知れません。