戦争について思うこと

僕の祖父は、長崎の原爆で亡くなりました。

ほぼ、今の僕と同じ年(37歳)ぐらいで、5歳になる父と祖母を
おいて逝きました。

祖母と父が遠くの町に出かけている時の出来事で、
祖母が祖父の元(自宅)に戻ろうとするのを、父がお腹が空いたので
家に帰らず、町でご飯を食べたいとダダをこねて、家に帰らずに、
祖母が折れて、父とご飯を食べに行った時に、原爆が自宅付近に投下
されて助かりました。



僕は、祖母から戦争の話を幾度も聞かされました。

祖母は、テレビで戦争の話になると、いつも涙を流していました。

僕は、幼いながらに、戦争や政治のことを人一倍考えていたと思います。
小学生の時に、ケンカを大きくしたものが戦争なんだと思い、戦争の原因は
人の心にあると思いました。

人の心のケンカを起こす部分をなくすことができれば、戦争はなくなると、
思っていました。

その後、その「ケンカを起こす部分」は無くすことができないとわかり、
無くすものではなく、競争心などのプラスの方向にもっていくことが正しいとわかりました。

それからは、政治の仕組みや世の中の仕組みに興味を持ち、政治や宗教、人類学、文明学に関する書籍を読み、
ニュースもよくみるようになっていきました。

そして、戦争を起こす原因はいかに、複雑で、難しい問題なのかがよくわかるようになっていきました。


政治は興味を持ち出すと、「関心」から「批判」が出てきます。

「批判」を越すと、「提案」が出てきます。

「提案」が溜まると、「実行」したくなります。

小さい単位のコミュニティでも同じで、たとえば、家庭でも「夫が家事をしない」という不満が
あれば、解決の方向に注力すると、ただ口うるさく言うだけから、具体的に「こうすれば家事をしてくれるのでは?」
という「提案」に変わります。

この流れは人類進化においても同じで、「関心」→「批判」→「提案」→「実行」というプロセスをたどります。

今の日本全体の視点では、この「関心」から「批判」のところのフェーズに位置すると思っています。

たとえば、今回の安保法案のデモに関してなら、10年前ならデモは起きなかったと思います。

日本人は、「デモを起こさない人種」と見られているぐらいに、政治に関心がない人々とみられていました。


また、
「休日で議員がいないのにやっても仕方がない」
「デモをする許可を取っていないのに、法律を守れないやつが憲法を守れるか」
などネットでデモに対する批判がされていたりします。

安保法案に対して、良い悪いという議論は僕はここでしたいのではなく、

「相手側にどれだけ立って見ることができるか」ということが大きな視点だと思っています。

たとえば、「休日で議員がいないのにやっても仕方がない」は、「休日でないと人が集まらない」のが
実状だと思うし、「デモをする許可を取っていないのに、法律を守れないやつが憲法を守れるか」は、
許可を取ってやるデモはできないに等しいし、そもそもデモなのにナンセンスだという考えも見えてきます。

僕は、デモは、内容は別として、デモ自体をすることはとても良いことだと思っています。

それすらできなかった日本人がやっと不満を出せるようになる(批判)ということは、進化にとってとても大切だと
思うからです。


沖縄は、日本の中でも異質で、政治や戦争に対しては、非常に関心が高いです。

本土ではしていない戦争の歴史に関する番組もとても多くて、新聞にもトップにくるのは
戦争・政治関連のことで、日本にある米軍基地の大半が沖縄にあるというだけでなく、
日本で唯一地上戦が行われたところだという土地柄もあると思います。

米軍基地の問題も、中国の脅威から見ると、必要だと思うし、実際に戦闘機やヘリの爆音
で仕事が中断されることでは、基地はあって欲しくないとも思います。

もう少し突っ込むと、米軍基地問題の矛先は米軍に向けるのではなく、中国の脅威をなくす方向に向ける
べきだと思うし、米軍も中東への中継地点として、沖縄以外の候補を探すべきでしょう。
戦争をなくすという問題に対しては、色々な提案ができます。

ひとつあげると、長期的な視点では、「地球全体の自衛隊」を作ることだと思います。
現在、各国が戦力を保持することが一つの問題で、相手の侵略を脅威に感じて、軍を持つ必要に
せまられています。

ここまで、ほぼ国家の境界線が明確になってきている時代なので、相手の侵略を自国が守るのではなく、
侵略を犯そうとする脅威を「地球全体の自衛隊」が取り除くという方法です。

「地球全体の自衛隊」は、色々な国から出来る限り均等に兵力を出して公平さを保ちつつ、
軍備を持つ組織です。

いわば、軍事の外注で、その外注をひとつにまとめることで、国家間の戦争を防ぐことができるのではないかと
思っています。

また、ロシアも自国の軍隊を食べさせていくことに苦慮しているように、各国が国家予算から高い軍事費
をあてて、軍隊を維持する問題も解消されます。

戦争問題の次に脅威になってくる、地球規模の問題にもチカラを集めることもできます。

地球規模の問題とは、巨大隕石の衝突や巨大フレアによる太陽線、CO2による温暖化等々。

僕が始めて、沖縄を訪れた時に行ったところは、平和祈念資料館です。

そこには、戦争のむごさを思い知らされる歴史が嫌というほどありました。

けれども、最後に少しだけ残念なものも感じました。

そこには、「提案」がありませんでした。

戦争をなくすための数々の「提案」が、壁にかかれているなり、メモがはってあるなり、
要人からのひと言として一覧にしてあったりしていても良いと思うのですが、それが
ありませんでした。

一人ひとりがそこで感じて、「こんなことで戦争がなくなるのではないか?」という自分の
意見が言える場があってもいいなと思いました。

悲しみや苦しみに代表されるような「批判」は、次のステップの「提案」に移るべきだと思います。

提案から見ると、愚痴や批判は簡単で、批判から見ると提案はとても難しいことに気付きます。

提案は、様々な角度から見ることが必要にもなるし、ある程度の知識も必要になります。

また、提案に対する批判も少なからずあるでしょう。

どんな組織や集合体でも、先を走る人もいれば、後を追う人もいます。

どっちが良い悪いというわけではなく、先を走る人の役割としては、「提案」や「実行」に注力
することがその集合体の進化を早めることができると思っています。

今、「批判」に違和感を感じている人は、「提案」のフェーズに移る時なのかも知れません。

プロセス指向の大切さ

自分は「プロセスを楽しみ、結果に満足する」というポリシーを持っていて、これを常に意識している。


世の中には、結果主義が萬栄していて、結果だけを追い求めて、その他のものは二の次にしてしまう風潮がある。


結果が出るまで諦めないという意味で使われることが多いとは思うし、自分も目標を達成させるという意味では、結果主義だ。


しかし、プロセスを忘れて結果に走ることで、失われるものが多くある。それどころか、目標にまで到達できるはずが、プロセスを間違えたが故に目標に到達できないということまである。




ダイエットの場合を考えてみると、ダイエットをしたい人が、トレーナーにお願いして、ダイエットを始める場合に、トレーナーがそのダイエットをしたい人が現在どういう状態なのかを把握して、そのプロセスにあったメニューからはじめなければならない。


ダイエットをしたい人が、日頃から比較的運動をしている人なら、ランニングから始めてもよいかもしれないが、運動をまったくしていない人がランニングから始めてしまうと、ハードルが高すぎて、心労も多くなり、続かない。運動をまったくしていない人からは、ウォーキングから始めて、十分に体力がついてからランニングを始めるといったことが必要だ。


しかし、トレーナーの中には、ランニングから始める人がいたり、ランニングすることがいかに重要かを説く人がいたり、見当違いのサプリメントを推薦してみたりといった状態なのが、プロセスを無視した姿だ。


もちろん、これは例えなので、スポーツではきっちりプロセスを意識した対応がされていると思うが、健康問題、お金の問題、組織の問題など、目に見えにくい部分では、特に、プロセスを無視した対応が多くみらる。



プロセスの不一致による弊害が起こりやすいものの代表としては、書籍などがある。

本は、ある一定の大多数のために書かれるため、個人に応じた内容にすることはできない。

言葉も著者側のボキャブラリーになり、マス単位のために抽象的になる。


当然といえば、当然なのだが、読者が自分のプロセスに応じた書籍を選択しないと、読み終えてもよくわからなかったり、頭でっかちになり、実感もない学説を人に説いたりするようになる。


どんなにすごい書籍でも、自分のプロセスにあっていないものは、効果が薄く、場合によっては、ハードルが高すぎると感じて、せっかく成功していたものが、失敗に終わってしまうということまである。




昼は心地よく緊張する仕事が大切で、夜はリラックスすることが大切なのに、ストレスがないリラックスばかりを説き、昼までリラックスすることに注力したり。


不眠症の人に、寝れそうな時に寝ることのほうが大切なのに、早寝早起きが大事だと言って、それを信じ込んだりと。

プロセスを無視した、不一致による弊害が現代社会には溢れかえっている。


マスメディア対個人なら受け取る個人側が自分のプロセスを判断しなければならないが、一対一のアドバイスをする人がプロセスを無視することも多い。



まず、自分の目標が何なのかをはっきりさせて、そのために必要なものを把握して、自分の状態と照らしあわせてみて、自分の現在の位置を把握する。そして、今の自分の欠けているものを自分のできる順に補っていく。


成長と同時に、次のステージにあがり、そのステージにあった人や本やメディアがそこに存在するので、そこから情報を得る。


自分のプロセスの後でも意味がないし、先過ぎても心労が大きくなる。



1メートルの壁を乗り越えたことが無い人が10メートルの壁を乗り越えられるはずもない。


まず、1メートルの壁が何なのか、自分は今何メートルの壁を越えれる力があるのか、同じ1メートルの壁でもどうやったら楽しく乗り越えられるのか、というプロセスをしっかりと考えれば、楽しみながら目的を達成することが可能なのではないだろうか。

まず、プロセスをしっかりと意識することから始めてもらいたい。

今まで見えなかったものが見えて、達成できないと思っていたことが、できると思えるようになるかもしれない。

悩まずに問題は解決できる

悩みを全く持たないというのも初期のプロセスのうちは問題だが、

悩み過ぎるというのも問題。

「人生は悩みの連続」「人生は悩みはなくならない」「悩むことで人間は成長する」

こういったことは、世間ではよく耳にする。

しかし、私はこういったことには、少し違和感を感じる。

私も幼少の時から人一倍悩んできた。

うつ病の時期も長期間だったのもあり、悩むことに関しては、人一倍関心があり、そのことについて深く考えていた。


その中で、悩みというものは、2つの構成要素から成ることがわかった。


悩み = 問題 + 感情


問題が起こった時に、それに自分の感情が入ることで、人は悩むのである。


問題は絶対にゼロになることはないので、「人生は悩みの連続」「人生は悩みはなくならない」

というのは、「問題」という意味では正しいが、「悩み」の部分では正しくない。

感情がしっかりとコントロールできれば、「悩み」は連続もしないし、「悩む」ことはなくなる。

では、「悩むことで人間は成長する」という言葉はどうか。

感情がコントロールできていれば、それは悩みではなくて、問題を解決することで人は成長するのである。


この問題と解決方法は、自分の実生活の中でも特に役立っているし、今でも役立つ。

4年前ほどから、私は汗疱性湿疹と成人型アトピー性皮膚炎が突然、同時に発生して夜も眠れないほどだった。

どちらも今は98%治って全く問題はなくなったが、どちらも難治性で、非常に厄介な病気だ。

この時には、感情のコントロールはできていたので、悩むことはなかった。

ただただ、問題として捉えていただけで、感情が動かされることはなかった。


猛烈なカユミで、枕もシーツも血だらけ、夜はカユミを抑えるための、保冷剤を枕元におかないと寝れない。

こんな時が何年も続いた時には、さすがに感情が揺れて、悩みそうにはなったが、結局悩まずに解決できた。

悩んでいたらそれこそ、鬱になって、自殺していたかもしれない。


けれど、感情をコントロールできていたため、悩んだという実感はない。


しかし、問題としては、大問題として捉えていたので、さまざまな手を尽くし尽くした。

あらゆる文献も読み、研究もしてきた。

おかげで、皮膚病にも詳しくなれたし、薬剤名や使い方などもマスターすることができた。

さらに良いことに、皮膚が痒くないことに感謝でき、感情のコントロール力をアップさせることができた。


こんな自分でも、感動物の映画やドキュメントにはとても脆くて、いつも涙を堪えるのがやっとだ。

でも感情のコントロールをわきまえているので、問題には、感情を入れることはない。(まだまだ修行中で少ないが正しいかも)


しかし、このスキルは、仕事にも私生活にもさまざまなところで非常に役に立つ。

仕事でも大きな問題が起こっても、問題を小さく分けて、それを一つ一つ淡々とこなすことで、大きな壁を乗り越えてきた。

ぜひぜひ、このブログを読んでくださっているかたも、

悩み = 問題 + 感情

を意識して、問題に取り組んでいただきたい。


感情がコントロールできれば、今まで越えることができなかった大きな壁を乗り越えることができ、不可能を可能にすることができるかもしれません。

変化できないということが最大のリスク

今日も蝉の声が激しい夏日です。

ドラマなどでは、よくミーン、ミーンと泣く、ミンミンゼミの鳴き声がよく使われますが、

自分が知っている普段のセミクマゼミのシャン、シャン、シャン、と鳴く声ばかりですね。

ミンミンゼミのほうが風情があっていいのになと思いつつ、クマゼミの鳴き声も夏らしくて好きだなと。



さてさて。

私達は、日常は、仕事に行き、家に帰り、さまざまな繰り返しの中で生活をしています。

しかし、人生は確実に終わりの方向に向かっていて、僅かづつでも成長はしています。

そういった日常の普段の事を問いなおすということが、進化する上でとても大切なのでは無いでしょうか?


・これではダメだとは思いながら、同じことをしている。
・同じことを考える
・同じ道具を使う
・同じ場所にいる
・同じ言葉を使う
・同じ問題にぶつかり、同じ回答をする


現状維持で、同じことをしているということは、実は退化とまではいかくても、進化していないのではないだろうか。

学習をしていないということは、現状維持ということで、何も変わっていないということは、世間が進化していると

すれば、それは退化なのではないだろうか。


現状維持は、遅かれ早かれ、いずれ壁にぶつかる。


現状維持に慣れてしまっている人の多くは、壁にすらぶつかっていることに気づかないし、気づいたとしても

何も行動を起こせず、変化することができない。

確かに、現状維持は、考えることが少なく、混乱することもないので楽だ。

人は習慣の生き物なので、現状維持を好む習性がある。


しかし、この学習をしない現状維持こそ、もっとも恐れなければならないことではないだろうか。


この情報化社会では、あらゆるものが急減に変化していく。

このような中では、変化できないということが最大のリスクなのだ。


私達は、幼い頃から学校というところで、受け身で教わることを教わり、周りに合わせて行動することを教わり、

自分で考えて行動を起こすことを習わない。


毎日の生活の中で変化がない、変化できないように教育されてきている。

生きていくための力を付けるところが、本来の学校なのに、現在の教育では、生きていくための力を削ぐ教育だ。


幼い頃から教え込まれた教育を自分の中から追い出し、自分の力で考え、変化することを喜べる自分でありたい。


そういう人が増えることが、人類の進化を早めることになると思う。

自分を救うことから始める

一昨日、私が住む兵庫県川西市は、猛烈な雨が降りました。

家にいて無事でしたが、今までに見たことがないぐらいの土砂降りで、思わずビデオカメラ

を回してしまいました。

ビデオカメラに撮って何に使うのかといえば何もありません(笑)

ただ残しておきたかっただけです(笑)

ではでは、最近特に感じていることで、どなたでも持っていもいい感覚なのではないかなと思ったことを書きます。



「自分と戦う」「自分を変える」「自分に勝つ」



私はこの言葉が怠惰な自分を勤勉な自分に変えることと解釈し、とても大切なことだと思っていましたが、

もしかすると、そうではないような気がしてきました。


これまで、自分と戦い、なんとか自分を変えようと何度も挑戦してきましたが、特に何の効果も利点もなく、

逆に、自分を苦しめて、未達感覚に打ちひしがれ、疲れだけが残るという状況がありました。




では、自分と戦わず、自分を変えず、自分にしたがってみようと思い、実行してみました。

罪悪感や悲壮感が出るかなと思いきや、ところがどっこい、こちらのほうが、目的達成の効果が高く、

継続して物事が実行でき、喜びが残るではありませんか。



こういう経験は、短期間のうちに感じたことではなく、5年から8年ぐらいの期間に自分を大切にしてみようと

実践した結果でした。



実は人は、自分を大切にして、自分らしく生き、自分を中心にして生きるということが苦手なのかもしれません。


ともすると、自己中心的におちいってしまいそうですが、自立した大人であれば、そういうことは起きません。


むしろ、日本人に特有の自己犠牲という美麗に足を取られて、「自分」を徹底して犠牲にして、大切な自分らしさ

を失っているんです。



本当は、自分を変えるのではなく、「自分に付属するもの」を変えるのです。


自分と戦い、勝つのではなく、自分の欲望をしっかりと満たし、自分と戦わなくてもいいように、疲れを取ることが正解なのです。



「自分に付属するもの」とは、生まれてから身についたありとあらゆる習慣や癖や考え方や知識やルールなどです。


それらをバージョンアップさせることが自分の成長なのです。


そこをどんどんバージョンアップしていくことで、より自分が自分のままでいやすく、自分の力が発揮できるようになります。



まるで、自分が変わったように思えることがありますが、自分は全く変わっていなく、むしろもっと自分が出てくることを実感できます。



自分の欲望を満たすことは、自立した大人であれば、他人を困らせるようなことは、自分の欲望に反することぐらいは手に取るようにわかるでしょう。


自分の欲望を満たすことは、決して悪いことではなく、非常にいいことなのです。


自分の欲望を満足させることが、幸せになることでもあり、成長でき、次のステージにいけるのです。

なのに、自分と戦おうとするから、同じ道をグルグル回ってしまう。

自分の中の自分が欲望を通じて、大切なことを教えようとしてくれているのに、その自分と戦いを起こし、勝てるはずもないのに、勝とうとする。

時が経つとまた同じことが起き、同じことを繰り返す。



スポーツ選手などで、自分の限界に挑戦するという意味は、自分が作り出している壁を突破するという意味で、これも自分に付属するものを取り除く作業といえるでしょう。


このことと、自分と戦うという意味の解釈が全く違うのです。

解釈の違いだけで、行動と結果が大きく変わってくるのです。



自分の声に耳を傾け、自分の力を益々発揮できる環境づくりをし、自分を大切にする生き方。



もっと、もっと多くの人が自分を大切にして生きて欲しいと思います。

感情をコントロールするコツ

しかし、真夏ですね〜。

私は、毎朝娘をつれて散歩にいくのですが、7時台でも汗だくです。

5ヶ月の娘は、どんなに暑くてもスヤスヤ気持ちよさそうに散歩中は寝ています。



さてさて、今日は感情の問題に触れてみたいと思います。



感情の問題は、奥が深く、生活を密着しているので、ここだけでは収まらないと思いますが少しでも読者様のお役に立てるかもと。



感情は、生きる上でなくてはならないもので、生まれたての赤ん坊は、信号に例えると赤色のみの信号

みたいなもので、何かあれば「泣く」オンリーで、親に知らせます。


それが、信号に色が増えるように、「泣く」「笑う」「驚く」「怒る」など感情が豊かになってきます。



それらは、生きる上で必要で、他の人に自分の状態などを伝える重要な伝達方法でもあります。


感情は言葉のように後から学習していくものではなく、本能レベルで発達していくものなので、感情を客観的に見るためには、
しっかりと意識しないと客観的に見れるものではないです。


感情が自分を動かしていて、それが自分のあらゆるものをコントロールしていることに気づいていない人にとっては、何も問題とは感じずに、生きている人が大半なのではないでしょうか。


これらの問題に気づき対策を練ろうにも、気づけば振り回されているとなるので、コントロールするのは難しいと思います。

しかし、しっかりとコントロールできるようになれば、かなり世界は違って見えてきます。


お金のコントロールも感情のコントロールと密接に関わっていて、例えば株式投資でも、感情に支配されている状況では、

少しの値動きで、売買してしまいますが、感情がコントロールできるようになると、冷静に判断できるようになり、

市場の波をうまくとらえることができるようになります。

つまりは、収入にも影響してきます。


私が長年とはいっても30代なので、大したことがありませんが、12年ぐらいかけて見つけたKSFは、

1,固定する

2,疲れ

の2点です。



まず、感情を固定するためには、「使わない」ことです。


使わないようにするためには、感情を動かすものと触れ合わないことが肝心です。


感情を動かすものは、例えば 音楽、映画、小説、など心の描写を描いた喜怒哀楽が入っているものです。


自分の感情を少しでも動かすものになるべく触れないことです。


それがたとえ、自分のやる気を引き出し、魂を鼓舞するようなものだとしても、それでも感情を使っていることになるので一旦は触れないようにします。


自分が大好きで、やる気を引き出し、魂を鼓舞してくれるようなものは、固定できるようになってから使うとコントロールされていたことが実感でき、次はそれ(感情を動かすもの)を「使える」ようになります。


また、固定しようとしてもできない場合があります。


それは固定しようにもできないような大きな出来事(親族の不幸など)だったりしますが、それを除くとほとんどが「疲れ」に帰着します。


「疲れ」は極限に達すると、感情に影響を及ぼします。


少しのことでイライラしたり、クヨクヨしたりと、バックグラウンドで動く脳の疲れなので、自分では認識することが難しく知らず知らずに感情が自分に影響を及ぼしてきます。


美味しいものを食べて、ゆっくりした時間を持ち、グッスリ寝ると疲れは取れていきます。


すると、びっくりするぐらい疲れていた時とは、違って感情が固定できます。



感情は、使えば使うほど、大きくなり、動きやすくなるという性質があるため、一度でも使うと、同じ感情が出やすくなります。


ゆえに、なるべく感情を動かすものから遠ざかり、固定できるようになれば、感情を動かすものを利用するのがベストです。


感情のコントロールの大切さを気づいたけれど、どうしたらいいかわからない人はまず上記の内容から始められてはいかがでしょうか?



次のステージへいけるようになると思います。

抽象的表現は毒にも薬にもなる。〜抽象的表現の訳し方〜

「自分の場所で太陽のように輝け!」

このような抽象的表現は、あらゆるところで用いられる。

人を動かすような啓蒙や励ましには、抽象的表現しか本来用いることはできない。

具体的表現では、人を励ますことはできないのだ。


例えば、「ひと月に3冊の本を読もうよ」と励まされても、特に鼓舞されることはない。

しかし、「果敢に戦う賢者のように自らの頭を耕せ!」と言われたほうが、やる気になる。

このように、具体的表現では、やる気にさせることはできないが、抽象的表現ならやる気に
させることが可能となる。


しかし、今の日本には、ここに大きな落とし穴がある。

抽象的表現は、現実には、訳さないと実行できないのだ。


「希望の道を開け!」と言われて、やる気にはなっても何をしていいかわからず、実際の行動に移せない。


実際の行動に移せないから、自分なりに感情でなんとなく、訳してしまったり、感動をして終わってしまうという

ことがおこってしまう。



これの何が問題かというと、意味の無いことに注力してしまうことが問題で、少し具体的にいうと、効果が薄く、
効率が悪いことに傾注してしまう。訳し方が間違ってしまうと、本来の励ましとは逆の方向にいってしまうこともある。



啓発力のある言葉を受けて「意味ある」「とても大事」だと思っていても、振り返ってみると何も変わっていない。


一時的なものならまだいいが、これを繰り返していくと、問題なのが「苦労グセ」がついてしまうことだ。


私自身も非常に「苦労グセ」が強かったので、取り除くにはそれこそ苦労したほうなのだが、この苦労グセ

は、どんなに楽な作業や仕事についたとしても、知らず知らずに苦労をする方向を選択しようとしてしまう。



だから、豊かな人生を歩もうと思っても歩めなくなり、イバラの道を好んで歩いてしまうことになり、豊かな人生から遠ざかることになってしまう。



今の日本には、こういう抽象的表現が溢れかえっていて、それに動かされて、不幸に陥っている人が多い。


抽象的表現は、薬にも毒にもなることを知る必要がある。


しかも、発信する側ではなくて、受け取る側が対策をしなくてはいけない問題なのだ。



抽象的表現を訳すには、まず自分の言葉で言い換えてみることにある。

「希望の道を開け!」とあったら、「ん?希望ってなに?」と自分に問い直し「なるほど、ワクワクか」
とか「楽しみか」とか「ドキドキすることかぁ」など自分が一番ピンとくる表現に言い換えてみることだ。

その次は、「具体化」。具体的にするコツは、自分の目標からの逆算が一番効果が高く、効率もいい。


例えば、上記トップの

「自分の場所で太陽のように輝け!」


という言葉を受けたら、自分の近々の目標が「新しい友人5人作る」というものなら「よし!今月は3回飲み会や
勉強会を開こう」と訳す。


それが自分にとって「太陽のように輝いている」ことになる。


このように訳していかないと、苦労グセが付き、不幸になる道から外れることはできない。



抽象的表現は自分が落ち込んでいるときには、有効だが、落ち込んでもなく、もっとプラスのことをしたい時には

役にたたず、具体的なことが役に立つ。



言い方を変えると、マイナスからゼロにするときには、抽象的表現で。ゼロからプラスは、具体的表現が必要なのだ。